あおいうず

「自分を大切にする」ってどういうことか試していく記録です。思ったこととか書きます。

仕事を辞めて、変わったこと。

7月が終わる。と同時にわたしの【お休み期間】も終了となる。

大きく変わったこともあったし、まだ変化途中なのかなと思うこともある。

大きく変わったこととしては、

 

  • 血圧のmax値(収縮時血圧)の平均が30くらい下がって、ほぼ正常値に
  • 突然下肢に走る電撃のような激しい痛みがほとんどなくなった
  • 何食べても胃痛が起こることもほとんどなくなった

 

が挙げられるかな、と思う。

 

  • 血圧のmax値(収縮時血圧)の平均が30くらい下がって、ほぼ正常値に
通勤・仕事中、また夜勤明けの動悸と身体の震え、そして眩暈が酷くて去年の秋くらいから内科にずっと通っていて、そこで「年齢のわりにやたら血圧が高い」ということがわかった。(手の震えから最初甲状腺の病が疑われてMRI撮ったけど大丈夫でした)
ざっと書き留めていた記録を見ると、今年の4月の時点でmax140過ぎ。130を上回るといわゆる高血圧になるわけだけど、その10mmHgを軽く10上回った血圧がわたしにとっての通常値だった。
「君の場合は交感神経のせいかもね。性格もあると思う」と言われ、当初はどうしたらいいかわからなくてそのままの生活を続けていたけれど、それがまずかったようで、やっぱり強制終了がかかって休職、ということになった。「何か憂さ晴らしの方法を見つけてリラックスしなさい」と言われたけれど、そんなことをする時間があるならわたしはとにかく眠りたかったし、そして食べたかった。(後から後悔するのに)
 
人間には自律神経(交感神経・副交感神経)というものがあって、いわゆる"戦闘モード"になると交感神経が優位になるのだそうだ。このとき身体は呼吸を浅くし、血管を収縮させ血圧を上げる。必死になって働くうちに、いつしかわたしの身体は常に戦闘モードになっていた。そういえば、よく先輩たちにもっとリラックスしたら?とか、呼吸浅いよ、とか言われていたっけな、と思う。
休職中、いろんな人の話を聴き自分の身体の内側に目を向けていくうちに、この動悸や眩暈・高血圧は自然におさまっていった。
「××しなきゃ、しなきゃ、はやくしなきゃ」「××であるべきだ、絶対にそうだ」こういう思い込みが自分自身の心身をずっと縛り付けていたのだと思う。本当は、であるべきことなど、なかったのだ。場所が変われば変わり、相手が変われば変わり、時が過ぎれば、自分が変われば。すべては変幻自在だ。わたしたちはそういう可能性の中を漂いながら生きている。
 
  • 突然下肢に走る電撃のような激しい痛みがほとんどなくなった
腰椎椎間板ヘルニアと診断される直前、仕事中突然仙骨から足先にかけて電撃のような痛みが走り、立っていられなくなりその場に崩れた。それから何度もそんな痛みがやってくるようになり、痛みがいつ来るかわからないのがとても怖かった。
 
腰痛は身体に溜め込まれた怒りによって引き起こされる。(もちろんそうでない重篤な疾患もあるだろう)
TMSジャパン代表、長谷川淳史氏著『腰痛は<怒り>である』を読んだ。

わたしにはずっとずっと表現できていなかった”怒り”が確かに在ったのだ。

それはこの本を読む前からわかってはいたけれど、向き合うこと恐れ、目を逸らし、忘れたふりをしていた。けれど、もう、今ここでやらなかったら、ずっと痛みを怖がって生きていくしかないのかもしれない。それは嫌だった。

溜め込んだ感情と向き合うということ。まず、静かに、そして具体的に、感情を「眺める」。 すべてはここから。ああ私は怒っていたんだな。悲しかったんだなと。ただそれを繰り返している。

そうしているうちに少しずつ、痛みが来る頻度が減っていることに気づいた。これからもこの習慣が続けばいいな、と思う。

 

  • 何食べても胃痛が起こることもほとんどなくなった
これもおそらく感情(≒ストレス)と自律神経のバランスの悪さだったような気もするのだ。入社してこの1年で、2度胃腸炎になった。病院へ行ったのが2回、それからも胃痛は続いていたけれど、もうお金も時間も勿体なく思ってしまって(どうせ治ってもすぐぶり返すから)医者にかかることはなかった。今考えれば「どうせ治ってもすぐぶり返すから(行かない)」という思考自体も大問題だったなと思う。
地獄のような胃痛。何も食べてないのに吐きそうなほど食べたみたいに胃が膨らんでいた。痛みで眠れない夜、わたしは自分と自分が生み出した環境を恨んだ。
 
夜勤をやめ仕事を辞めてから、胃痛は自然に薄れていった。
何を食べても胃が痛くなるからお粥ばっかり食べていたけれど、最近は元気にモリモリ色んなものが食べられて嬉しい。でも、まだ完全にはなくなっていない。やっぱり痛むなあという日もある。
身体と心と向き合う日々を重ねていきたい。
さすればこの痛みが必要でなくなる時がやって、きて欲しいな。
 
 
働くことを再開した途端、元通りになっちゃいましたー!だと洒落にならないし、そうならその次はもうないなと思う。多分、次に前のような状態になったら、わたしは生きてはいないのだと思う。
 
 
環境や人は、ただそこに在るだけ。
わたしはそこを自分で選び、そういう自分であった。
だからそうじゃない自分に変われば、選択肢も変わりうる、よって環境や関わる人も変わるだろう。
何かのせいという思考を、できるだけ手放していたい。何かのせいというより、ただの因果応報。在りて在っただけのこと。
 
わたしも、ただただ、在るだけ。
変化の海に漂いながら、それでも、ただ在るだけだ。
 
 

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水族館が好きで、地元のそれの年間パスを2年連続で買った。
青色に包まれる空間に身を置き、そして目一杯水槽に近づけば、自分もその中に入れたような気がしてとても心地いい。
 
水はいい。漂うことを無条件に飲み込んでくれる。
留まることができないからこそ、”今、ここ”を感じていたい。