あおいうず

「自分を大切にする」ってどういうことか試していく記録です。思ったこととか書きます。

休職39日目。携帯ショップで怒れなかった話。

『怒りを表現する』

わたしはこれがとても苦手なのだなと感じる。

 

 

先日ショッピングモールでスマホを格安のものに変更した。

(実際には中身だけ変えてもらうというやり方です)

 

手続きで担当の方のミスがあったようで、結局3時間以上かかってしまった。

お店側のミスではあるけれども、本人がいないと処理ができないからということで、階を移動して他のお店に私が手続きに行くという場面もあった。

 

「お姉さん忙しそうだから、すぐ見積もり出して、できますよ!」と意気揚々としていたお兄さんは、自分のミスが発覚した途端、わたしのことを「お姉さん」から「お客様」に呼び名を変えた。あの違い、なんだったんだろう。

 

ミスを修復するのに手数料が3240円。わたしが一度は支払わなければならない。

休職中だからお金もそんなにないのになあ、と思いながらも笑顔で「わかりました」と言ってしまう。

「ほんっと申し訳ない、いっぱいサービスしとくんで!」とヘラヘラ笑いながら大量にラップを渡されたけれど、お店から自宅まで片道徒歩20分。重くてしんどかった。

途中必要な書類を取りに帰宅した際、それも伝えていたはずなんだけどなあ・・・と思いながらも笑顔で受け取ってしまった。

 

ミスなんか誰でもしてしまうものだし、

最初に声掛けられてじゃあ変えますって契約したのは自分だし・・・。

 

でも、本当は「自分がミスしてしまいました、ごめんなさい。」って言ってほしかった。

本当は時間かかってしまってごめんなさいって言ってほしかった。

本当はなんでそっちのミスなのにわたしが最初だけでもお金払わなきゃいけないのかわかんなかったし、移動するときも先に店舗さんに電話して事情話しておいて欲しかったし、ついてきてくれるとかそういうのしてほしかった。

(実際すごく変なお願いをするということだったみたいで、そのお店の店員さんたちを困惑させてしまった。とても不安だった。)

モノ渡しておけばいいやっていうような感じに思えたし、

ずっとへらへらしてるの、不愉快だった。

 

なんで笑顔になっちゃうんだろう。なんでなんでもかんでも「大丈夫ですよ」って言ってしまうんだろう。

本当はめちゃくちゃイライラしてるのに。不愉快だったのに。

全然、大丈夫じゃなかったのに。

 

怒りを表現したら、相手を傷つける。相手に迷惑を掛ける。

わたしの感情は、相手を不快にさせる。

だから我慢すべきである。きっとそんな風に無意識にインプットされているのだろうな、と思う。

でもあれ?そしたらわたしの思いはどこへ行くんだろうな、とも思う。

 

帰宅してからもずっとイライラしてしまって、家族にはそれが伝わる。

事情を話すと「え?なんでその時にちゃんと言わなかったの?なんでヘラヘラしてる相手にヘラヘラで返すの」と不思議がられた。その通りだと思う。

怒鳴って暴れるとか無茶な要求をするとか、そういうわけでなくて。

正しい方法で、ちゃんと言葉を使って伝えられたら良かったんだろうなと思う。

そうすれば家族にイライラをまき散らさずに済んだろうし、

イライラ自体もそこまで続かなかっただろうし、こうやってブログにつらつらと書くこともなかったはずだ。

 

お店を出るときには怒りが頂点に達しそうな感じだった、でもやっぱり笑顔で「ありがとうございました」と言ってしまう。いや、これから料金を今までより安くで使えるのは間違いなくこの人が今日いてくれたからで、お礼を伝えたいという思いはあったけれども、でも、でも。

 

「クレーム、入れちゃおっかな。」

 

そうよぎった私は担当者の方に名前をお伺いする。

一瞬間が空いて、「××です。」と教えてくれた。(なぜかこの方だけ名札を付けていなかった。)

「そうですか、××さん、今日はありがとうございました。またお願いします」と伝えて、お店を出た。そんなこと、全然思ってないのに。

たぶんもう二度と行かないと思う。彼の顔もできれば見たくない。

 

怒りを表現するって、私にとっては本当にハードルが高いことなんだなぁと思う。

自分に正直になる、正直に表現をする。

それもまた「自分を大切にする」のひとつなんだろう。

それを身を持って知ることができた。

 

 

クレームって「ここをこうして欲しい」という願いがあって意味を成すものだと思う。

じゃなきゃ言われた方も「で、どうして欲しいの」って思ってしまうんじゃないかな。

だから私がここで本社の方にお伝えしたところで、だ。と思った。

別にもう「今すぐ謝罪してよ!」とも思わないし、「手数料払いたくない」とも思わない。これも勉強だったのだと思って受け入れて、電話するのはやめよう。

 

そんな風に思っていると、知らない番号からの着信があった。

出てみると、さっきの店員さんで、ミスがあった分の手数料はかからないようにしました。それをお伝えしたかった、とのことだった。

「わかりました。わざわざありがとうございました」とまた笑顔をつくる。

電話を切ると横にいた兄が「そうやっていい人のフリするからやろ。」と言ってきた。

その通りだ。とほほ、である。

 

私が正直になって、本当の意味で自分を大切にできる日はまだまだ遠い。

 

ちなみにその店員さんは電話でもやっぱり申し訳ありませんでした、とは言わなかった。(笑)バーカバーカ!

休職31日目

先日お手伝い出勤も最終日を迎え、

本当に『お休み期間』に。

店のメンバーからも、電話で少し話した社長からもあたたかい言葉を頂いて、やることはやったのだと自分に言い聞かせ、笑顔で退勤することができた。

 

働かなくなった途端に一気に体調崩すんじゃないかという予想は大当たりで、今思いっきり気管支炎のような状態だ。何か吐き出したいことがまだあるのだろうなと思う。

 

そんなこんなで、わたしは今無職のような状態だ。休職中は「頑張って頑張らないことを徹底しなさい。なにもしないことをしなさい。」と言われ続けてきたけれど、正直何も頑張らない、意識して何もしない、ということがむず痒くて仕方ない。


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少し前の写真を見返しては、「この頃はまだ働けてたのになんで今は」って考えてしまう。痛む体や不安定な神経が答えなのに、わたしはまだ「もっとやれた」とか「頑張りが足りなかった」などと考えてしまいたくなる。後悔に逃げたいのだ。

 

部屋を片付けて、副業の準備をしなきゃ。

生理学の勉強をしなきゃ。

同僚にLINEの返信をしなきゃ。

もっとストレッチをやらなきゃ。

もっと、ちゃんと生きなきゃ。

 

『もっと』ってなんなんだよ。

『ちゃんと』ってどういうことなんだろう。

今から逃げたくて仕方ない。怖いから。

 

時が来ればまた必ず動き出せるようになると信じたいけれど、そうではない今を受け止めるのが、怖い。

関係性の変化について

時が経てば、人や場所との関係性が変わることがある。

 

しがみついても、すがっても、変わることを止められないことがある。

 

ここ最近そういったことに向き合わざるを得ないことが幾度かあって、どうすればいいんだろうな、と考えていた。


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(バスの中から見えた横浜の夕焼け。

美しかった。指写ってるのちょっと恥ずかしい。)

 

ここはこことして存在し、

わたしはわたしとして存在し続け、

あなたはあなたとして存在し続ける。

 

多分、一切のジャッジを止めて、

自分で居続けるしかないのだと思う。

 

だってここも、あの場所も、あの人もあなたもそうだろうから。

 

自分の望む通り、つまり‘変わらない’は、きっと真理から離れている、と思う。なぜならわたしだって変わり続けているのだから。

 

更新していくものなんだろう。

 

その時その時 お互いが自分を生きている、そこから生まれるだけ。関係性って、そういうものなのかもしれない。そこに善も悪もない。

 

なんて悟ったふうに書いているけれど、

わたし自身はまだまだ奮闘を止められない。

そこには悲しみや寂しさ、怒りや虚無感、興奮や喜びもある。

 

ただただ受け入れて自分になる。

それは簡単なことではないけれど、その先には穏やかがあることが、少しずつわかってきた。

 

交わったその先に別離があるかもしれない。

それはそれでいいのだ。

もしかしたらその先にまた交わりがあるかもしれない。それもいい。

どの地点のわたしを見ても、わたしはわたしでしかない。そういうふうに生きられたらいいな、と思う。

休職23日目

山梨県都留市。ちょっと前までここに住み、お世話になっていた町(の正確には駅)にいる。

東京方面へ戻る電車の時間を勘違いして逃したばかりだ。


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広い空と張り巡らされた電線、針葉樹だらけの山、そして晴れた日の夜空が美しい町。

 

山梨滞在の初日から今日まで、何もしない日はないくらい色んな人に会って対話をして、歌までうたわせてもらえた。

 

初日の混乱は今、凪いでいる。

 

ここに誰と来て、何をした。

ここには一人で来て、なにもしなかった。

記憶を受け入れたかった。

一人で歩き回ったり、わざわざ甲府から会いに来てくれた友人にも付き合って貰って 思い出の確認作業をした。

 

ここには誰が住んでいた。

ここで何を感じていたのか。

 

わたしはずっとこの場所と ここで感じていられる感覚、そして人々に執着し、癒着を求めていたのだと思う。

 

けれどももう、ここにわたしの居場所はなかった。だから前向きに諦めることができた。 

希望はない、けれど悲しみも怒りも、ない。

ただそうであって欲しかった自分を見つめていた。

 
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卒業する直前、絶対にもう一度この足で歩こうと決めた 大好きな道だ。

こんな形になるとは思っていなかったけれど、求めていた経験は得ることができたし、

ああ、もう来れなくても大丈夫だな、と思えた。

 

未来などない。

ただただ今を生き重ねるだけ。

 

休職18日目。

14日から東京に来ている。

来た日から今日まで 今のところ全日誰かと会えていて、呼んでもらえていて、本当に有難いなぁ と思う。

 

わたしの原点はいつだって絶望であったけれど、

そんなわたしの話を聞きたいと言ってくれる人たちがいる。

だから、それでも良かったのかもと思えるようになった。良かったのかも、いや、それで良かったのだ。

 

大阪を発つ前、「いろんな考え方に触れておいで」と言われた。来てからも「知らない考え方を取り込んで、生きやすくするんだよ」と言われた。

わたしの凝り固まったパワーメンヘラ脳が、ゆっくりと溶けていく。

 

自分を抑えて生きるのと、

自分をちゃんと生きるってこと。

 

自由に生きるってことは、その代わり誰かを傷つけるってこと。だからわたしは自由を拒み、自分に嘘をついてきた。

 

けれども たぶん、こうだ。

自分を抑えた時、それは同時に生まれた感情にも蓋をする。わたしさえ我慢すれば、、けれども溢れ出そうな感情はオーラみたいな感じできっと回りに伝わっている。それによって不愉快に思う人も出てくるだろう。そしてその抑圧はなかなか消えてはくれない。

 

自分を生きる。その時そのときの感情に、蓋をせず、出しきってしまう。剥き出しの感情は刃となって誰かを傷つけるかもしれない。

でも自分の中で完結させることはできる。

 

たぶん、どっちにしろ傷つけるのだ。

これからどちらを選ぶのか、まだわたしの中で答えは出せないけれど。どちらが善か悪かをジャッジするつもりもない。

でも、極端にならない程度に、自分だって大切にしたい。

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 静かな海辺で どこまでも自由な人のマッサージを受けた。 

「人生なんて死ぬまでの思い出作りだからさ」と語る彼は楽しそうだった。

have to, mustに固められたわたしに「やらなきゃいけないことなんかないよ。やりたきゃやればいいんじゃない?」と言ってくれた。

 

やりたいからやる。やりたくないからやらない。

もはやここまでシンプルに生きている。

そうするとシンプルな人たちが集まってくる。

やりたいからやる、やりたくないからやらないがうまくバランスを取って、不思議と自由な世界ができる。

 

わたしもはやくそこへ行きたい。

休職7日目。

休職が始まって7日目を迎えた。

 

6日目の昨日は、マッサージの練習会にお邪魔させてもらっていた。

師のお家にセラピストが集まって、変わりばんこで2時間ずつくらい。

ゆったりした時間にゆったりのマッサージ。体も全然しんどくなくて、

よく触ってよく笑ってよく触って貰った1日。夜は持ち寄りの飲み会。

わたしは飲まなかったけれど、楽しい夜だった。

帰りは夜の鴨川を眺めて風に当たって、こんな夜がいつもあればいいなと思った。

そんな生き方を選び取っていきたいな。

 

そして今日、朝起きたら眩暈が止まらず・・・。(笑)

喉もガンガン痛い。

たぶん、数日前にバカみたいに雨に濡れちゃったのがいけなかったなぁ・・・なんて思いながら お手伝いごめんなさい行けませんとLINEを打つ。

 

あー やっちゃったな。と思いながら歯を磨く、頭が痛い。

 

でも、心配してくれた仲間のメッセージが暖かくて 痛む喉に染みわたるようだった。

わたしがすぐに「返信しなきゃ!」と思ってしまうタイプなのを見越して「返信いいからね」って先回りしてくれるやさしさ。恵まれているんだなぁ、と思う。

 

昔から体調を崩してもあまり家族には心配されないタイプだった。

この言い方は多少極端かもしれないけれど、男尊女卑思考に近い母親の下で育ったおかげで 何かあるたび兄や父親が同じ状況なら違ったのだろうな と卑屈になってしまう。わたしごときに掛ける心配はないのだと。かわいげのない女だなと思う。

そしてなんでも平気そうにしてしまう癖も手に入れた。

 

でも、大学で一度家を出て、社会人になって付き合う人たちが増えると、

あ、そうでもないのかなと思えるようになった。彼らはわたしのくだらない癖も、ちゃんと見抜いてくれていた。

 

「大丈夫?」という言葉はそこに心があるないで大きくエネルギーが変わるものなのかもしれないけれど、一瞬だけでも気にかけて貰えるのがうれしかった。

一番に欲しいと思っていた人から貰えなかった言葉でも、

場所を変え環境が変われば、受け取れるようになるのかな。

家族より仲間の前で泣いたりしんどいと言える回数が増えた。

 

両親がわたしに掛けてくれた愛情もたくさんあったことは重々理解しているつもりでも、

いつしか「どうしてあの時××したの?」がよぎるようになった。

 

もっとわたしを大切にしてよ。

もっとわたしに言葉をちょうだい。

もっと、もっと

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いまだ幼い子どものように泣いてみたくなるときがある。

 

母親に叱られて泣き叫ぶ子供を見て、一緒に泣きたくなる。

不安が押し寄せる。何がなんだかわからないけど泣きたくなる。

「ごめんなさい」と思いながらその場から去ってしまうけれど、

何がごめんなさいなのだろうか。

 

わたしの歴史に何があったんだろう、いつからこんな風になってしまったのか

わからない。

 

でもたぶん、今わかっているのは誰かにそんな言葉を投げるより、

自分でしてあげる法が手っ取り早くて、幸せなんだろうな、ってこと。

言うだけなら簡単だけど・・・。

 

過去を振り返るのが怖いから、向き合えなくて立ちすくむ自分がいる。

休職5日目

休職し始めて5日目を迎えた。

そうは言っても少しだけお手伝い程度に働いてしまっている(本当はダメなんだけど)から、完全なる休養ってわけではないんだけれど。

毎日それなりにやることは決めていて、案外早寝早起きもできてしまっている。

でも、全然満たされない。

胃腸がやられてしまってるせいでたくさん食べられないからあれだけ激しかった過食衝動も全然起きないし、結構穏やかだ。


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朝の用事を済ませてしばし休憩。

ベッドでごろごろしながらセラピー誌を読む。

でも、どこか空虚だ。

どうしてだろう。

まだまだ寂しい気持ちがなくならない。